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隣人がFCバルセロナの勝利に狂喜するのを聞いて、私のサッカー熱が覚めた理由を思い出した。書評「エーコとサッカー」

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サンジョルディとフランス総選挙とエル・クラシコ

4月23日、バルセロナでは本とバラの祭典「サンジョルディの祝日」を祝っている日の夜、隣人の叫び声が聞こえてきました。

奇しくも、フランスでは大統領選挙の第一回投票が行われ、中道マクロン氏と右翼ルペン氏が熱い戦いを繰り広げている最中。隣人はフランス系の人なので、まさか選挙の結果を見て!と一瞬思ったのですが、いやそんなことあるはずない、と思い直しました。

 そう、23日は、マドリッドサンティアゴ・ベルナベウ・スタジアムで、FCバルセロナマドリッドの因縁の試合、エル・クラシコが行われていたのでした。まだ試合を見ていないという人のために、試合結果はバラさないでおきます。

隣人の叫び声のなぜ

我が隣人の叫び声が聞こえるのは、珍しいことではありません。その金切声が聞こえるのは、決まってサッカーの試合があった日です。サッカー試合当日のときもあるし、翌日の時もある。

サッカーの試合翌日に叫ぶ場合は、決まって贔屓のチームFCバルセロナが負けた時です。チームが負けた日の翌日は一日中機嫌が悪いのか、昼とか夕方とかとても変な時間に、絶望的に何かを罵倒する声が聞こえてきます。

高校生なんだよね、その彼。多感な時期なんだと思う。夫に言わせれば、サッカーの試合の結果ごときで、精神衛生が左右されるなんて病んでいるという。

サッカーの試合と、自分の人生って関係ある?

冷静に考えれば、プロスポーツチームのサッカーの試合結果なんて、サッカー選手本人やその家族、チーム関係者、マスコミの皆さんでない限り、自分の人生には何の関係もないはずだからね。

でも、世の中には、そうでない人がたくさんいる。サッカーや野球を始めとするプロのスポーツチームに魅せられてしまう人がたくさんいる。

そういう私も、もとはといえば、ここバルセロナにやってきたのは、FCバルセロナに惹かれてのことだし、実際、数年間とはいえ、サッカー業界に身をおいていた時期もありました。その熱狂する気持ち、分かるんです。私も、一時期、超ハマったから。

今となっては、サッカーの試合、すっかり見なくなってしまいました。その理由は、探せば色々あるのですが、一因となったのは、ある本に出会ったからだと思うのです。本日は、その書評をします(前置き長くてスミマセン)。

【書評】エーコとサッカー

その本とはズバリ、「エーコとサッカー」です。

「エーコとサッカー」ピーターPトリフォナス著

こちらは、岩波書店ポストモダン・ブックスというシリーズの一つです。2004年に発売されました。電子書籍版はなくて、ハードカバーとペーパーバックの2種類があります。

「薔薇の名前」で有名なイタリアの小説家ウンベルト・エーコ。「エーコとサッカー」は、哲学者でもあり記号学者でもあるエーコが、サッカーをどう考えていたのかをピーターPトリフォナスさんという学者が考察している本です。

本文は60ページ強と短く、その後に脚注が続き、さらに、今福龍太氏の解説が30ページほど続くという構成になっています。文章としては短いですが、記号論で哲学的なことがたくさん出てくるので、書いてあることをきちんと理解しようと思うと、なかなか骨が折れるかもしれません。

観るスポーツの本質?

私の手元にあるのは、ハードカバー版。購入したのは、確か2004年だった気がします。当時の私は、フットボール(サッカー)の関連書籍、小説や哲学書やエッセーなどを片っ端から読み漁っていて、この本もタイトルにサッカーとあったからたまたま手にしたのでした。

そして、観るスポーツの本質を突きつけられた気分になったのです。

暴力を生ませる錯覚

例えば、なぜスポーツをみる観客は時に暴力的となってしまうのか。

試合の中で生まれる架空のアイデンティティへの忠誠と情熱を示すためには暴力も辞さずとなってしまう(p.27)

架空のアイデンティティか…。

贔屓のサッカーチームと、国家のナショナリズムというのは、スペインでは特に結びつきやすい傾向にありますが、やはりプロチームは所詮プロチーム。

でも、その境界はどんどん曖昧になって、そのプロチームこそが自分のアイデンティティを表象していると錯覚してしまうのです。だから、自分のチームを罵倒されると、自分が罵倒された気分になってしまう。そのチームの構成員として、暴力が飛び出す事態に発展することもある。なんか、分かる気がします。

居酒屋にたくさんいるサッカーの専門家

私は女性で、サッカーは好きだったけど、プレー経験はあまりない。だから、試合の細かい話になると、ちょっと付いていけないというか、そういう場面が多々ありました。

サッカーが好きな人は、バル(スペインの居酒屋)でも、延々サッカー談義に花を咲かせています。お腹がたっぷり出ていて、あんた、いつサッカープレーしたん、っていう人でも、まぁ、長い時間、話す話す。どうしてそんなにサッカーに詳しい人がこの世には多いのか不思議でなりませんでした。

でも、サッカーについて話すからといって、必ずしもサッカーをよく知っているとは限らないというのが、本著の観点でした。

メディアの装置が、言葉と映像の両サイドから、サッカーの記号の受け止め方をどんどん枠にはめてくる(p.34)

多くの人が語るサッカーやスポーツにまつわる言説というのは、新聞やテレビなどのメディアを通じて形成されたものを、反芻しているに過ぎないかもしれないのです。

観衆のイデオロギーのしみついた心性が、メディアの介入や社会の中にある既存の反応のしかたの影響を受けない状態で、そうしたイメージそのものにアクセスすることなどできない(p.35)

言説が生まれる前提として、既に特定の選手たちをアイドルにして有名にし、神話形成がなされてしまっている中で、実際にある現実を、現実そのままとして解釈するのはとても難しい。

「スポーツをするということとスポーツの話をすることがごっちゃになってしまい、お喋りをしている当の本人が自分を選手だと思いこんでしまって、自分はスポーツに参加していないことがもはや意識できなくなる時である」(p.57-58)

代理戦争ではないけれど、本来スポーツを覗いてるだけの自分が、チームの一員としてあたかもプレーしている気分になるという錯覚。この錯覚は、メディアにおけるスポーツのトークショーでより強固なものになっていきます。

今日のスポーツは「スポーツ・ジャーナリズムで行われる議論」から、つまり、「他の人たちの行なっているスポーツを言説として観ることを云々する言説についての言説」から成り立っている(p.58)

実際に、私達が語っているのは、見た試合そのものではなくて、試合を語ったジャーナリズムの言説をさらに語っているだけなのかもしれない。

その発言と行動に実際上の責任は取らないくせに、あたかもエキスパートであるかのように論ずることを許してしまう(p.59)

これが、毎日、居酒屋や家庭や街角のあちこちで、数多くのエキスパート(専門家)を生み出しているというのです。 スポーツをめぐる言説は、雰囲気が盛り上がるのなら、正しい答えかどうかは二の次になってしまう。実際、間違ったことを言った所で、居酒屋のおっさんが、チームの監督や選手からお叱りを受ける可能性なんてゼロに等しいのだから。

 スポーツと政治論争の時間

さらに、スポーツをめぐるお喋りに時間を割くことは、政治論争に割かれる時間を減少させると危惧します。

スポーツをめぐるお喋りは「政治論争の最も手軽な代用品」であって、「政治の話のパロディ」となってしまい、「このパロディのせいで、政治の論争に使うべき市民の手持ちの力は質が落ちて、しかも規制されてしまうことになる(p.64)」というわけです。サッカーを大いに論争した後に、実社会の政治を論争するエネルギーはもう残っていないということかしら。

自分の経験と社会の言論

本著の見方に対して、疑念を挟む人々も多くいると思います。

とりわけ、自分もサッカーをプレーしていて、試合を見ていても、自分なりの試合の分析ができる人たちにとっては、「え?自分の言ってることはマスコミの受け売りじゃないってば」と思うかもしれません。

私も、自分の経験に基づく言論であるならば、このケースには当てはまらないのかなと思います。ですが、世に流れる言論の多くが、このエーコの言う「スポーツをめぐるお喋り」に当てはまってしまうのも事実な気がしています。

突き詰めて考えるならば、私達の言論のどこまでが、私達自身から発せられたものなのか、私達が社会的な生き物である以上、結局はメディアや社会の中で形成された言論を反芻しているのに過ぎないのではないか、という非常に哲学的な議論に行き着くわけです。

ここで、答えを出すにはとても難しい問題。ちょっぴり哲学してみたい人は、ぜひ、一読してみてくださいませ。