暮植譚~クレウエタン はてな支部

暮植譚~クレウエタン 暮らしに植わる言説 https://kureuetan.com のサブブログです。こちらは雑記メインで書き綴ります。

部活動と聞いて…私の黒歴史を打ち明けます。

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今週のお題、部活動と聞いて、私の中学時代の黒歴史を思い出しました。

ちょうど今、部活を選ぶ時期でしょうから、若い人の参考になればと思って書いておきます。

黒歴史となるもう一つの部活動

今、中学時代の部活動は何でしたかと聞かれば、躊躇することなく、「陸上部」と答えます。

しかし、実は、陸上部に入る前のほんの2ヶ月弱ほど、所属していたもう一つの部活動があったのです。こんにち、私の口からはまず出ることのない、履歴書に書くこともない、私の黒歴史

それが、バスケットボール部

予想外の大きな誤算

そうです。入学して一番最初に入部したのは、バスケットボール部でした。

バスケ部に入った理由は、体育の授業でプレーしていて、楽しかったし、ゴールもそこそこ決めてたから、なんとかなるかなと思って、というとっても適当な理由。

普通は、そういう適当な理由がきっかけで部活に入る人はたくさんいるだろうし、それで全然問題ないんだと思う。でも、私の場合は違っていました。

私の通っていた中学校は、近隣の3つの小学校出身者が通う学校でした。そのうちの一つA小学校には、課外活動として行われるスポーツチームがありました。それが、ミニバス、と呼ばれるバスケットボールのチームだったのです。私の通っていたB小学校にもジュニアチームはありましたが、女子の場合はバレーボールチームのみ。バスケットチームはなかったのです。

部活で底辺のカースト

どういうことかと言いますと、中学校のバスケ部に所属しているのは、小学校のころからミニバスをやっている精鋭軍団の人たちばかりだったのです。

当然ながら、新入部員なのに、プレーのキレが違う。ボールをパスする音なんかも、プロっぽい。体育の授業でかじった程度の私なんか歯が立たない。

もちろん、A小学校以外の出身者でバスケ部に入部したのは私だけではありませんでした。そして、皆が皆、弱小で居心地も悪そうだったけど、人間関係が上手い人たちは、プレーが下手なわりにも、先輩や同期とも上手くやっていたのです。

しかし、人間関係が下手だった私はドツボにハマった。普通に、集団で浮いたのです。

そんな小学校からのミニバスの精鋭が集う私の中学校は、市内でも1、2位を競う強豪チームだったために、練習量もハンパなかったです。平日はもちろん、土日祝日、いつも練習。休みはなし。1000メートル走のタイムが1ヶ月で30秒早くなったほど、練習はキツかった。

練習内容も、上級者がやるような練習ばかりで、私がやるともうミスる、ミスる、それを誰彼からも怒鳴られる、怒鳴られる。

しかも先輩後輩の上下関係がキツくて、先輩が絶対崇拝の神みたいになってました。人生、後にも先にもここまで上下関係の厳しい集団は見たことありません。

 

何この罰ゲーム?生まれて初めて受けた痛い洗礼でした。

同級生も、ストレスたまってるのか、その捌け口がプレーの下手な私に向けられました。あからさまに無視されるし、練習の最中に耳元で、

「アンタ、何やってるの?本当に、それでも頭がいいわけ」

なんて毒づかれる。

私が頭がいいなんて、誰が言いだしたんだか知らないけど、根拠のないことがあれこれ付け足されて、陰口の対象になっているようでした。今でいうカーストの最下位ってやつです。

学校へ行くのが憂鬱に

学校へ行くのが本当に憂鬱になりました。

部活には、休みはない。授業の後、毎日ある。部活に行っても、ミスるだけ、怒鳴られるだけ、ハブられるだけ。

そういう時というのは、周りが見えなくなります。こういう環境でこれからもずっと生きていかなければならないの、と追い詰められてしまうのです。

今になって思えば、「嫌なことを我慢して続ける」という根性が、大人になってからの日本の社畜精神を形成しているんじゃないかとさえ思います。

救いの道

そんなブルーな気分がマックスの時に私を救ってくれたのは、母と、もう一人のバスケ部の女子部員でした。

母は一言。

「そんな部活やめちゃいなさい」

そっか、辞めるっていう選択肢があったんだ、と改めて気づいたのです。周りが見えなくなるとそんな選択肢さえ存在することが分からなくなってしまいます。

さらに、私と同じように、初心者で部内で同じくハブられてた子の一言。

「私、バスケ部やめて、陸上部に行くことにしたよ」

なぜ、その子が陸上部にしたのかは分かりません。足の早い子だったのかもしれません。でも、その時の私は藁をもつかむ思いで、彼女に続いたのでした。

5月も終わりのこと。バスケ部に入部してから2ヶ月近くが経過していました。たった2ヶ月だったのに、本当に本当に長かった。

そして、陸上部は、バスケ部に比べたら天国だった。めっちゃ楽しかった。良い友達もたくさんできたし、あのとき、部活を変えて本当に良かったと思っています。

私から言いたいこと

今はちょうど、中学や高校や大学や、新入生の子たちが、部活やサークルを選ぶ時期ではないかと思います。そんな方々に私が言いたいのは、次のとおりです。

  • ジュニアチームなど下の学年からチームがあるスポーツは経験者が豊富にいる場合が多く、初心者だと劣等生になる確率が上がるので、部活選びの際には気をつけましょう。
  • 入る部活を間違えたと思ったら、とっとと辞めて別を探しましょう。傷は浅い方が治りも早いです。

もちろん初心者で新しく始めても、優しく教えてくれる人たちも、部活も、存在します。私が、大学でやってたソフトテニス部の皆さまがそうでした。人間関係が良ければ多少のキツいことも耐えられます。

でも、万一ブラックな部活に当たってしまった場合は、我慢なんかしなくてもいいんだよー、と新入生にエールを送って終わりにいたします。

 

隣人がFCバルセロナの勝利に狂喜するのを聞いて、私のサッカー熱が覚めた理由を思い出した。書評「エーコとサッカー」

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サンジョルディとフランス総選挙とエル・クラシコ

4月23日、バルセロナでは本とバラの祭典「サンジョルディの祝日」を祝っている日の夜、隣人の叫び声が聞こえてきました。

奇しくも、フランスでは大統領選挙の第一回投票が行われ、中道マクロン氏と右翼ルペン氏が熱い戦いを繰り広げている最中。隣人はフランス系の人なので、まさか選挙の結果を見て!と一瞬思ったのですが、いやそんなことあるはずない、と思い直しました。

 そう、23日は、マドリッドサンティアゴ・ベルナベウ・スタジアムで、FCバルセロナマドリッドの因縁の試合、エル・クラシコが行われていたのでした。まだ試合を見ていないという人のために、試合結果はバラさないでおきます。

隣人の叫び声のなぜ

我が隣人の叫び声が聞こえるのは、珍しいことではありません。その金切声が聞こえるのは、決まってサッカーの試合があった日です。サッカー試合当日のときもあるし、翌日の時もある。

サッカーの試合翌日に叫ぶ場合は、決まって贔屓のチームFCバルセロナが負けた時です。チームが負けた日の翌日は一日中機嫌が悪いのか、昼とか夕方とかとても変な時間に、絶望的に何かを罵倒する声が聞こえてきます。

高校生なんだよね、その彼。多感な時期なんだと思う。夫に言わせれば、サッカーの試合の結果ごときで、精神衛生が左右されるなんて病んでいるという。

サッカーの試合と、自分の人生って関係ある?

冷静に考えれば、プロスポーツチームのサッカーの試合結果なんて、サッカー選手本人やその家族、チーム関係者、マスコミの皆さんでない限り、自分の人生には何の関係もないはずだからね。

でも、世の中には、そうでない人がたくさんいる。サッカーや野球を始めとするプロのスポーツチームに魅せられてしまう人がたくさんいる。

そういう私も、もとはといえば、ここバルセロナにやってきたのは、FCバルセロナに惹かれてのことだし、実際、数年間とはいえ、サッカー業界に身をおいていた時期もありました。その熱狂する気持ち、分かるんです。私も、一時期、超ハマったから。

今となっては、サッカーの試合、すっかり見なくなってしまいました。その理由は、探せば色々あるのですが、一因となったのは、ある本に出会ったからだと思うのです。本日は、その書評をします(前置き長くてスミマセン)。

【書評】エーコとサッカー

その本とはズバリ、「エーコとサッカー」です。

「エーコとサッカー」ピーターPトリフォナス著

こちらは、岩波書店ポストモダン・ブックスというシリーズの一つです。2004年に発売されました。電子書籍版はなくて、ハードカバーとペーパーバックの2種類があります。

「薔薇の名前」で有名なイタリアの小説家ウンベルト・エーコ。「エーコとサッカー」は、哲学者でもあり記号学者でもあるエーコが、サッカーをどう考えていたのかをピーターPトリフォナスさんという学者が考察している本です。

本文は60ページ強と短く、その後に脚注が続き、さらに、今福龍太氏の解説が30ページほど続くという構成になっています。文章としては短いですが、記号論で哲学的なことがたくさん出てくるので、書いてあることをきちんと理解しようと思うと、なかなか骨が折れるかもしれません。

観るスポーツの本質?

私の手元にあるのは、ハードカバー版。購入したのは、確か2004年だった気がします。当時の私は、フットボール(サッカー)の関連書籍、小説や哲学書やエッセーなどを片っ端から読み漁っていて、この本もタイトルにサッカーとあったからたまたま手にしたのでした。

そして、観るスポーツの本質を突きつけられた気分になったのです。

暴力を生ませる錯覚

例えば、なぜスポーツをみる観客は時に暴力的となってしまうのか。

試合の中で生まれる架空のアイデンティティへの忠誠と情熱を示すためには暴力も辞さずとなってしまう(p.27)

架空のアイデンティティか…。

贔屓のサッカーチームと、国家のナショナリズムというのは、スペインでは特に結びつきやすい傾向にありますが、やはりプロチームは所詮プロチーム。

でも、その境界はどんどん曖昧になって、そのプロチームこそが自分のアイデンティティを表象していると錯覚してしまうのです。だから、自分のチームを罵倒されると、自分が罵倒された気分になってしまう。そのチームの構成員として、暴力が飛び出す事態に発展することもある。なんか、分かる気がします。

居酒屋にたくさんいるサッカーの専門家

私は女性で、サッカーは好きだったけど、プレー経験はあまりない。だから、試合の細かい話になると、ちょっと付いていけないというか、そういう場面が多々ありました。

サッカーが好きな人は、バル(スペインの居酒屋)でも、延々サッカー談義に花を咲かせています。お腹がたっぷり出ていて、あんた、いつサッカープレーしたん、っていう人でも、まぁ、長い時間、話す話す。どうしてそんなにサッカーに詳しい人がこの世には多いのか不思議でなりませんでした。

でも、サッカーについて話すからといって、必ずしもサッカーをよく知っているとは限らないというのが、本著の観点でした。

メディアの装置が、言葉と映像の両サイドから、サッカーの記号の受け止め方をどんどん枠にはめてくる(p.34)

多くの人が語るサッカーやスポーツにまつわる言説というのは、新聞やテレビなどのメディアを通じて形成されたものを、反芻しているに過ぎないかもしれないのです。

観衆のイデオロギーのしみついた心性が、メディアの介入や社会の中にある既存の反応のしかたの影響を受けない状態で、そうしたイメージそのものにアクセスすることなどできない(p.35)

言説が生まれる前提として、既に特定の選手たちをアイドルにして有名にし、神話形成がなされてしまっている中で、実際にある現実を、現実そのままとして解釈するのはとても難しい。

「スポーツをするということとスポーツの話をすることがごっちゃになってしまい、お喋りをしている当の本人が自分を選手だと思いこんでしまって、自分はスポーツに参加していないことがもはや意識できなくなる時である」(p.57-58)

代理戦争ではないけれど、本来スポーツを覗いてるだけの自分が、チームの一員としてあたかもプレーしている気分になるという錯覚。この錯覚は、メディアにおけるスポーツのトークショーでより強固なものになっていきます。

今日のスポーツは「スポーツ・ジャーナリズムで行われる議論」から、つまり、「他の人たちの行なっているスポーツを言説として観ることを云々する言説についての言説」から成り立っている(p.58)

実際に、私達が語っているのは、見た試合そのものではなくて、試合を語ったジャーナリズムの言説をさらに語っているだけなのかもしれない。

その発言と行動に実際上の責任は取らないくせに、あたかもエキスパートであるかのように論ずることを許してしまう(p.59)

これが、毎日、居酒屋や家庭や街角のあちこちで、数多くのエキスパート(専門家)を生み出しているというのです。 スポーツをめぐる言説は、雰囲気が盛り上がるのなら、正しい答えかどうかは二の次になってしまう。実際、間違ったことを言った所で、居酒屋のおっさんが、チームの監督や選手からお叱りを受ける可能性なんてゼロに等しいのだから。

 スポーツと政治論争の時間

さらに、スポーツをめぐるお喋りに時間を割くことは、政治論争に割かれる時間を減少させると危惧します。

スポーツをめぐるお喋りは「政治論争の最も手軽な代用品」であって、「政治の話のパロディ」となってしまい、「このパロディのせいで、政治の論争に使うべき市民の手持ちの力は質が落ちて、しかも規制されてしまうことになる(p.64)」というわけです。サッカーを大いに論争した後に、実社会の政治を論争するエネルギーはもう残っていないということかしら。

自分の経験と社会の言論

本著の見方に対して、疑念を挟む人々も多くいると思います。

とりわけ、自分もサッカーをプレーしていて、試合を見ていても、自分なりの試合の分析ができる人たちにとっては、「え?自分の言ってることはマスコミの受け売りじゃないってば」と思うかもしれません。

私も、自分の経験に基づく言論であるならば、このケースには当てはまらないのかなと思います。ですが、世に流れる言論の多くが、このエーコの言う「スポーツをめぐるお喋り」に当てはまってしまうのも事実な気がしています。

突き詰めて考えるならば、私達の言論のどこまでが、私達自身から発せられたものなのか、私達が社会的な生き物である以上、結局はメディアや社会の中で形成された言論を反芻しているのに過ぎないのではないか、という非常に哲学的な議論に行き着くわけです。

ここで、答えを出すにはとても難しい問題。ちょっぴり哲学してみたい人は、ぜひ、一読してみてくださいませ。

年金生活者がたくさんいる社会ってどうなの

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スペインでは100万人以上が2つ以上の年金をもらっている

スペインで、100万人以上が2つ以上の公的年金を受給しているという記事を読みました。

Pensiones: Casi un millón de personas perciben ya dos o más pensiones públicas. Noticias de Economía

これはスペイン語の記事なので、日本語で大雑把にまとめると、

年金を受給されている人の11%が、2つ以上の公的年金、たとえば自分の老齢年金と亡くなった夫の寡婦年金、を受け取っています。スペインでは、自分が長年働いて得た老齢年金は、他の年金、寡婦年金や障害年金などと併用して受給することが可能なのです。

ただし、現在、年金を受け取っている世代は、専業主婦が多かった世代です。自分で働いて長年にわたり年金を払い続けてきた女性というのは少数派でしょう。フランコ独裁が終わった1975年以降、社会構造が大きく変わっていって、多くの女性が外に出て働くようになり、雇用保険をきちんと企業に払ってもらえるようになったのです。

つまり、今、現役で働いている世代の女性たちが年を取ってくると、老齢年金をもらう人の割合がどんどん増えていく。老齢年金は、他の年金と併用してもらえるので、2つ以上の年金をもらう人がこれからもどんどん増えていく。これが、将来的に国の財政を圧迫する可能性を問題視している、ということでした。

 

国のお金で生活する人

でも、この記事の裏には、もう一つ語られるべきことがあって、それは、

かなりのスペイン人が国からお金をもらって生活しているということです。この記事では、たまたま高齢の女性がテーマになってるけど、実際はもっと多くの人が年金をもらっているんです。

 

国からお金をもらって生活するということは、日本もそうですが、

失業保険や生活保護のような一時的なものから、障害者年金、老齢年金、寡婦年金など生涯にわたるものまで様々な種類があります。

こうした年金・支援制度は、お金を稼ぐことが困難になってしまった人たちのための、国のセーフティネットとして機能しているわけですが、中には、もらえちゃってラッキー!という人も混ざっているわけです。経済学でいうところのフリーライダーさんですね。

 

フリーライダーの存在

フリーライダー、つまり、タダ乗り。

こうした公共のサービスやインフラは、それが作られた段階で、一定の割合で存在してしまうフリーライダーを内包せざるを得ないのは仕方のないことです。そうしないと、本当に守らなければいけない人々が、救いの手から漏れてしまうから。

 でもね、でもねー。

いやー、スペイン、タダ乗りな人、多すぎ!

 

日本人って、年金や生活保護の不正受給問題に関しては、結構辛辣ですよね。

誰かが不正受給していると分かろうものなら、メディアやら何やらで社会的制裁までも徹底的に加えてしまう。ちょっとやり過ぎなんじゃね感まである。

 

誰に優しい国?

一方、スペインは…、多分…めっちゃ寛大。すごく寛大。

非難されるのを覚悟でいうと、スペインって良い意味でも悪い意味でも、バカと貧乏人に優しい国だと常々思っています。俺は私はバカだー、貧乏だーって落ち込んでいる人は、ここに来てほしい。色んな意味で、なんか安心できるから。

 

たとえば、私が衝撃だったのが、

恋人に振られて、精神的に参ってしまい、国から障害者年金(もちろん死ぬまで)をもらうことになったという、今も車を普通に運転している34歳の男性

とか。

失恋して年金もらうって何?もう分けわかんない。

 

あるいは、

夏に公営のプールへ行った時のこと。年金をもらっている人って、入場料が割引になるのですが、すごいスピードで歩いてきて、私たちの前に割り込んできた子連れのヤンキーカップル(20代前半くらい)が、堂々と年金者カードを受付に提出してました。夫婦で年金受給…。えっ?、これからプールで泳ぐんだよね、そっか、ふーん。

 

別にね、若くして年金貰っている人を責めるつもりは全然ないんですよ。外から見ただけでは分からない深刻な病気をもっていることだってあるわけだし。外野がとやかく言うことじゃないよね。

ただ、あまりにも、そこかしこにいらっしゃるのを見るとね、色々考えちゃうわけです。スペインの国家財政ってかなり厳しいわけだし、ドイツとかEUの親玉みたいな国からは、しょっちゅう圧力かけられているわけですからね。

 

難しいバランス

だからといって、不正受給を防ぐためと称して、受給資格を厳しくしてしまうと、生活力ない人多いですから、かなりの人が路頭に迷ったり、餓死したりしてしまうかもしれない。

スペインでは、誰かが餓死したというニュースを全く聞きません。実は餓死したんだけど、国が隠しているみたいな陰謀論的可能性は低いので、本当に餓死していないんだと思います。それは、フリーライダーの存在にはある程度は目をつむり、年金受給を寛大にしている背景もあるんじゃないかな、と思います。

もちろん、これがいつまで続くかは分かりません。今年中にスペインの年金基金は底を付くと言われていて、国は基金以外の資金源を模索している状態。それが、借金になるのか、新たな税金を創出するのかはまだ未定のよう。

フリーライダーがわんさかいる一方で、これから起業したい人々にとっては行政が定めた様々な障壁があって(既得権益を守るようにできている?)、すごくやり辛い社会。

私も、正直者が馬鹿を見るのは嫌だと思う一方で、弱者に優しい社会が少しでも続いてほしいなとも思う複雑な気持ちを抱えているのでした。